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富士山噴火の歴史

私たちの感覚では富士山は非常に穏やかで雄大な霊峰ですが、実際には現在も活動を続けているまぎれもない活火山です。

前回の噴火が1707年ですから、もう300年以上噴火していませんが、それ以前は100年に1度は噴火しているような活発な活火山のひとつでした。噴火の規模はさまざまですが、規模によってはかなり大きな被害を及ぼしており、現在富士山のふもとに広がる青木ヶ原の樹海は溶岩流の後にできたものですし、富士五胡を分断したのも溶岩流だということがわかっています。このことからも、溶岩流がかなり広範囲に流れ出たことがわかります。

富士山の歴史は、まさに噴火の歴史だったのです。



富士山の噴火と誕生

静岡大学防災センターより今から300万年以上前、現在の富士山があった一帯は、まだ太平洋の一部で一面の海でした。そこに愛鷹火山と小御岳火山の二つが活動を始め、噴火を繰り返すことによってその一帯に陸地が生じます。

約8万年前にこの二つの火山が活動を停止し、死火山になるとその間に富士山の原型となる古富士が生まれ、噴火を繰り返していきます。両側を愛鷹火山と小御岳火山に挟まれた古富士は、噴火によって流れ出る溶岩流や噴出する火山灰がそれらの山で堰き止められることによって高くなっていったのです。

特に2〜3万年前の古富士の噴火はすさまじく、富士山の歴史の中でも最も大規模な噴火が行われていたと考えられます。溶岩流のみならず、泥流も盛んに流れだし、現在の富士宮市から富士市、御殿場などに広く流出し、相模湾にまで達したことがわかっています。

やがて、古富士の頂上から溶岩が流れ出る噴火が始まり、徐々に新富士を形作っていきます。爆発を起こすことは少なく、基本的には静かに溶岩流を流す新富士の噴火は、山の形を損なうことなく徐々に高度を上げていきます。また、流れ出た大量の溶岩流はふもとの大きな湖を堰き止め、富士五湖になったのです。



記録に残る富士山の噴火

富士山の噴火が記録に現れるようになるのは、8世紀ごろからです。最も古い富士山噴火の記録は続日本記で、781年の噴火が記載されています。

それ以降、資料に残っているだけでも富士山の噴火や噴火に近い活動が12回行われており、平均すれば富士山は100年に1回ほどの割合で噴火を続けてきたといえます。現在300年以上噴火していないほうが不思議なほど、富士山は活発な火山だったのです。

数ある噴火の中でも、800〜802年の「延歴の噴火」、864〜866年の「貞観の噴火」、1707年の「宝永の噴火」は三大噴火と呼ばれる大規模な噴火で、大きな被害をもたらしました。


延歴の噴火

延歴の噴火は、800〜802年 (延歴19〜21年)にかけて起こった一連の噴火を指し、日本記略や富士山記、宮下文書にその内容が記述されています。

はじめの噴火は延歴19年4月11日〜5月15日の1カ月間にわたり、火山灰の降り注ぐ激しい噴火が続きました。昼でも火山灰のために暗く、夜は噴火の光が輝き、雷のような鳴動がとどろき続けたと記述があります。

さらに、延歴20年から21年初頭にかけて再び火山灰の激しく降る噴火があって、それまで使われていた足柄路が砕石などでふさがれてしまったため、新たに箱根路を開いたとされています。道路がふさがるほど砕石や降灰が続いた激しい噴火で、その時に現在の東斜面に位置する「小富士」が生まれたと考えらえます。


貞観の噴火

貞観噴火は、日本三大実録に記載されている、平安時代の大噴火です。864年に起こったこの大噴火は、のちの宝永大噴火と並ぶ富士山の歴史上最大規模の噴火でした。

噴火が起こったのは、864年6月。山頂から10km北西の斜面で起こった割れ目噴火は、巨大な火柱と3回の大地震を伴い、大量の溶岩を流出させました。この溶岩流の規模はまさに貞観噴火の特徴ともいうもので、噴出物の総量が約14億立方メートルになる途方もないものでした。

北西山麓から流れ出た溶岩流は、扇状に広がって北麓にあった「せのうみ」と呼ばれる巨大な湖の大半を埋め尽くし、そのわずかに残った部分が分断されて西湖と精進湖となりました。現在の広大な青木が原の樹海は、この時の溶岩流の跡で、この溶岩はさらに河口湖のほうへ向かって流れていったと報告されています。すべてを飲み込んだ溶岩流は、1100年かけて新たに森林を育み、自然豊かな青木が原の樹海を生み出したのです。

この時の最も大規模な噴火は、はじめの1〜2ヶ月のものだと考えられますが、貞観の噴火はその後2年に渡って噴火を繰り返したことがわかっています。


宝永大噴火

「週刊江戸」より宝永大噴火は、1707年に起きた富士山の噴火で、その大きな規模と最も新しい富士山の噴火ということで知られています。比較的新しい噴火であることから詳細な資料も多く、かなり詳細な噴火の状況が分かっています。

貞観の噴火が大量の溶岩を噴出したのに対して、宝永大噴火は溶岩の噴出を伴わないブリニー式の噴火です。ブリニー式の噴火では、噴石や火山灰などが火山ガスとともに噴煙柱となって吹き上がります。宝永大噴火では噴煙が上空20キロまで噴き上がり、富士山の斜面には高温の軽石が降り注いで家屋を倒壊させ田畑を埋め尽くしました。噴火そのものは12月16日に始まり12月31日に終焉しているのですが、被災民は食糧不足に悩まされるとともに、その後の田畑の復興にも苦労することになります。

その火山灰は100km離れた江戸にも降り積もり、当時江戸に暮らしていた新井白石は「よべ地震ひ、この日の午時雷の声す、家を出るに及びて、雪の降り下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也。西南の方を望むに、黒き雲起こりて、雷の光しきりにす」と書き残している。(「折りたく柴の記」より)

宝永大噴火の49日前にはM8強の宝永地震が起き、死者2万人以上を発生させています。宝永地震は東海地震と南海地震の同時発生によって引き起こされたとされており、現在でも地震の発生が予想されている場所だけに、その再現が懸念されます。